小林歯科医院の歴史(1)

 

 小林歯科医院は,浅草の地で開業して早90年間,現在の医院長で3代目の歴史深い歯科医院でございます。

 古くから浅草地域に住まわれている皆様と同じように,私ども小林家一家にも,この越し方,時代の変遷に伴う悲喜こもごもがございました。

手前味噌とは存じますが,私ども「小林歯科医院」の歴史について,お付き合いいただきたく,お願い致します。

小林歯科医院の初代創設者:小林文蔵は,明治21年に山梨県の山間部の集落に生まれました。文蔵の実家は,その地では代々地主の家系であったと古い親戚から聞いております。ですが,文蔵の父は,-よくある話で-,“飲む・打つ・買う”にうつつを抜かし,田畑売って身上を潰し,文蔵は,幼少時代に実家を出て,東京での流転の日々を送る厳しい暮らしを強いられたとのことです。

文蔵は,父親の他界後に一度故郷に帰ったものの,もはやその地に暮らす場はなく,また東京に舞い戻り,縁あって某国大使館員宅の書生となり,日々英語を学ぶとともに,東京歯科大学に入学して歯科医師となりました。

大正末期,文蔵は,現在の浅草松屋デパート付近で,「小林歯科院」を創業致しました。しかしながら,開業後間もなく,花川戸地域の区画整理が行われたため,「小林歯科医院」は芝崎町(現西浅草3丁目)の浅草教会(旧小百合幼稚園)前に移転しました。芝崎町は,「小林歯科医院」の最初の基盤となった場所であり,文蔵は約20年間,この地で診療を行っていました。

太平洋戦争中の昭和20年3月,東京大空襲で,下町地域は雨あられのような焼夷弾を受け,多くの命が亡くなり,そして,多くの人々が傷つき,人々の幸せも,細やかな日常生活も…,すべてを奪った悪夢の一夜が過ぎ,文蔵にとって,焦土の中に残ったのは,焼け落ちた「小林歯科医院」の燃えかすと,自分の「命」のみでした。

このように,芝崎町の「小林歯科医院」は,その地域の皆様の家屋と同様に,完全に焼失し,文蔵のそれまでの診療生活は,焦土に没しました。

文蔵は,即座に戦火で苦しむ西浅草地域の人々の医療救護に参加しました。古くから旧田嶋町(現西浅草2丁目)に在住の方はご記憶かと思いますが,田嶋町には「斎藤病院」(現在の小林歯科医院所在地前)という総合病院がありました。文蔵は,空襲後から終戦後しばらくの間は,西浅草で唯一焼け残った斎藤病院を基盤として医療救護で働き,芝崎町・田嶋町地域の方々の手当てにあたりました。

終戦後の混乱状態,東京下町地域の人々は,皆辛い日々であったと思います。皆様と同様に,文蔵もとても苦しい日々を送っていたようです。

歯医者というものは,とても因果な商売です。頭の中にどれだけ医学的知識があっても,豊富な臨床経験があっても,道具が無ければ糊口をしのぐすべがありません。

空襲で診療室を失ってしまった文蔵にとって,生活の手立てはなにもありません。

やむなく,終戦直後は,山梨の遠縁から小豆を取り寄せ,にわか仕立てのバラック小屋で汁粉を作って,アメ横に売りに行ったこともあったようです。

その後,「斎藤病院」の院長から,“この土地を分けてあげるから,ここで歯科医院を再開しなさい”と,現在の「小林歯科医院」の所在地(台東区西浅草2-16-1)で「小林歯科医院」を再開することになりました。

これが,現在の「小林歯科医院」に至る基盤です。

終戦後から昭和47年までの約20年間,西浅草2-16-1での初代の診療室は,木造2階建ての昔ながらの日本家屋,医院の玄関脇の生垣には,毎年,それは見事にたわわに咲く八重桜があり,それが「小林歯科医院」のシンボルでした。

初代医院長の文蔵は,74歳(昭和47年)まで現役歯科医師として診療室で働き,現役引退後も,何人もの歯科技工士を育て上げて,この世を去りました。

文蔵は,浅草をこよなく愛した人でした。また,おしゃれな人でした。

診療が終わった後はいつも着物姿。夏は,風呂上がりに自分の好みの柄でしつらえた浴衣をさらっと着流して,花屋敷辺りから観音様へ,ふらっと夕涼みに行く風情は,とても粋でした。文蔵の孫である当代医院長は,文蔵の人生,粋な男ぶりをとても尊敬しています。